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ALL NEW AGAIN──見るものすべててが「また」新しい

 

僕が今いるこの塔から海まではかなりの距離があるはずだった。

だけど今日は、波の音がすぐ近くから聞こえてくるようだった。

波が浜辺に打ち寄せては、また沖に引いていく。砂の一粒一粒が、夜の波に揺られ踊るのが想像できた。

僕は海の波も浜辺の砂も見たことはない。でもだからといって、頭の中に何も思い浮かべられないわけじゃない。

 

随分、長いあいだ、この場所にいる。

部屋の唯一の灯であるろうそくは、炎を震わせながら少しずつ我が身を削っていく。

厚いレンガの壁はところどころ欠けていて、小さなクモがレンガのあいだの窪みに入り込んでいった。

僕の影が石張りの床の上でゆらめく。どこかで水がしたたる音が鳴る。

古い木枠で囲まれた小さな窓には容赦無く風が吹き付け、バタバタと落ち着きのない音を立てる。

 

今夜は、いつになく騒がしい。

 

この小さな窓は僕と外の世界をつなぎとめる唯一の接点だ。

もちろん、僕がこの小さな窓を抜けて、外に出てしまうことなんてできないんだけど。

 

コツ...コツ...。

 

正確に言うと、外との「接点」は一つではなかった。

あまりに長くこの場所にいるから、いつもそのことを忘れてしまう。

 

厚く重い鉄扉。

それは確かにこの部屋にあった。

 

すでに錆付いていて、もはやそれは扉としての役割を失いつつあった。

部屋の内側にはドアノブはついておらず(外された形跡がある)、

ドアの下にはまるで猫が出入りするような小さな四角形の出入り口があった。

 

コツ...コツ...。

 

長いらせん状の階段を登る音が少しづつ近くなる。

 

夕食の時間はとうに過ぎているはずだった。

 

毎晩決まった時間に夕食 (といってもパンのかけらと冷めたスープだけなんだけど)が鉄扉の「ねこの出入り口」を通して渡される。

もちろん、その渡し手が誰なのか僕には分からない。

 

僕が分かっているのは、朝食と夕食は必ず決まった時間にくるということだ。

この部屋には時計はないが、太陽と月のだいたいの位置でおおよその時間の検討はつく。

いつも太陽と月が同じ位置にくるとき、決まって階段を登る音が聞こえてくる。

曇りや雨の日には、この自然の時計を失うことになるのだけど。

 

そして、「ねこの出入り口」の小さな扉が開けられ、

金属製のトレイの上に乗せられた食事がこの部屋に送り込まれる。

 

かなり長い年月、これをくり返していると思う。

僕には幼い頃の記憶がまったくといっていいほどない。

だから、どのぐらいこの部屋にいるのか分からないが、

ここにいるあいだに、かなりの歳月が流れたことだけは確かだ。

 

僕の毎日において絶対に乱れることのない二回の儀式。

このうちの一つが大幅な遅れをきたしていた。

これは非常に珍しいことだ。

 

あまりに外の様子がいつもと違って、

それに気を取られていたので全く気がつかなかったが、

「ねこの出入り口」が開かれる時間はとうに過ぎていた。

月はもう塔の真上まで登っていて、この時間なら僕は眠り込んでいてもおかしくはなかった。

 

途端に僕は激しい不安に襲われた。

 

「足音」がいつもと違う気がするのだ。

そして、足音がこの部屋に近くにつれ、疑念は確信へと変わった。

 

いつものような控えめで小気味良い小さな足音でなく、

まるで大きな革のブーツを履いた大男が一歩一歩登ってきているような、

不規則で、横暴な足音だ。

 

どうしてこんなに近くにくるまで気がつかなかったのだろう。

あぁ、もうこれは風のせいだ!

こんなにうるさく吹き付けるから、この足音に気がつかなかったんだ!

 

足音はいつも決まって73回聞こえてくる。

いつも足音の数を数えていたのだ。

孤独のなかで生きていると、人は身の回りの何気ない物事の数を数える。

 

もちろん今夜は足音の数なんて数えちゃいないが、

部屋にかなり近いところまで来ていることは明らかだった。

 

冷や汗が頰をつたうのが分かった。

気がつくと手先が震えていた。

 

いったい、今夜はどうなっているんだ。

 

僕はベッドの下に潜り込んだ。

蜘蛛の巣が顔に引っかかったので思わず声をあげそうになったが、

必死で声を押し殺した。

 

足音が鉄扉まで迫ってくる。

と、同時に外では激しい雨が降り出してきた。

遠くの方では雷まで鳴り始めた。

 

いったい、今夜はどうなっているんだ。

 

僕は雨と雷の音のあいだで聞こえる足音に耳をすませた。

 

いつもなら、遠く離れた家のおじさんが咳払いをする音や、

はるか向こうの木の葉っぱが互いをこすりあって立てる音まで聞こえるのに。

今はすぐ近くの足音さえ聞き取ることができなかった。

 

雨はより一層強くなり、窓は今にも割れそうなぐらいガタガタと音を立てている。

 

大きな雷が鳴った。

 

それは塔の近くの木に落ちたらしく、バキバキッと鈍い音を立てて幹が真っ二つに割れたようだ。

 

そして一瞬風が止んだ。

 

足音は鉄扉のすぐ前まで迫ってきた。

 

僕はどうすればよいか分からず、ただ息を止めた。

 

もういちど、大きな雷が鳴った。

足音を聞き取ろうとすることをあきらめた。

どうすればよいか分からずただ強く目を閉じた。

 

あたりに静寂が流れた。

 

それはなんの濁りもない、透明な静寂だった。

指揮者がタクトを振り上げ、今まさにオーケストラが始まろうとするかような

“何か”が始まる前の、独特な静けさがあたりを包んでいた。

 

冷たい風が部屋に流れ込んでくる。

鉄扉のほうからだ。

 

おそるおそる

ベッドの下から出てきて僕は驚いた。

 

鉄扉が開いていたのだ。

 

重く錆付いた鉄扉は開かれ、

らせん階段の壁のろうそくがゆらゆらと光っているのが見えた

 

僕はその状況を理解するまでにしばらくの時間がかかった。

何しろこの扉が開くのは僕にとって初めてのことだったからだ。

 

どうやら扉を開けた「誰か」はすでにその場を去っていたようだ。

足音は消え去っていた。

僕はおそるおそる扉の外を覗き込んだ。

 

古びていながらも荘厳なつくりのらせん階段だ。

木でできた手すりが美しい曲線を描き、下の方に伸びていく。

そしてそれは暗闇の中へと消えていった。

僕は手すりから体を乗り出し下の方に目をこらしたが、ただ暗闇が見えるだけだった。

 

僕はしばらくのあいだ、部屋を一歩出たところで考えた。

 

おそらく誰かがこの鉄扉を開けた。

そしてそれは僕を外に出すためだろう。

 

だれがなんのために?

そして、その「誰か」はなぜ僕に会うことなく去っていったのだろう。

 

すべてが宙ぶらりんになったままだ。

気がつくと、あれほどうるさかった雷と雨風は止み、満月が空から僕を覗き込んでいた。

 

おそらく、この状況で理由を考えるのは無意味なことだろう。

僕は古びた帽子をかぶり、部屋を出た。

 

僕は一歩ずつ息を殺して階段を降り始めた。

足音を鳴らさないように、かかとからゆっくりと慎重に。

 

下に誰かがいるかもしれないし、だいいち僕はこの部屋の外に出るのは初めてなのだ。

階段を降りる──そんな動作すらおぼつかない。

 

階段はかなり長く、一向に下がみえる気配はなかった。

時折、足をとめ、じっと耳をすませた。

しかし、下からは何も聞こえてこなかった。

 

ちょうど半分ぐらいまで来たところだろうか。

広い踊り場に出た。階段は曲線を描きながら下のほうに伸びていく。

 

まだ下は見えない。

 

踊り場の壁の部分だけはレンガで出来ており、黒い木製の扉が窮屈そうに付けられていた。

どうやら外に通じているようだ。

 

おそらく外にも階段があり、壁の修理をしたり窓の掃除をしたりする際に使うのだろう。

この塔の主はおそらく一度もこのドアを通って外に出たことはあるまい。

 

使用人が仕事で使うような、扉としての最低限の役割をもたせただけの扉だ。

そこに洒落た装飾は一切なかった。

コツ…コツ…。

 

僕は心臓が止まりそうになった。

 

下の方から先ほどよりもいっそう近くから、もっと現実的に足音が聞こえてくる。

それは部屋で聞いたときの足音よりも鮮明で、足音が起こす空気の振動が僕の鼓膜を激しく震えさせた。

このまま、足音の主をここで待つか、上へと戻るか。

考えている余裕はなかった。

足音の主は僕を捕まえ、部屋へと連れ戻すのだろうか。だとしたら、誰が扉を開けたのだろう。

それとも僕をどこかへ連れて行こうとするのだろうか。

足音は大きくなり、階段が軋む音がした。

動かなくては。

僕は黒い扉を勢いよく押した。

夜風が勢いよく僕の顔に吹き付けられた。

 

目の前にはただただ広大な森が広がっていた。

胸ほどまである錆付いた手すりから顔を乗り出し、下を覗いた。

目下には夜風に揺れる木々が見えたが、そこに至るまでにはそれなりの距離があるように見えた。

丸い塔につたのように絡みついた階段を降り始めた。

カンカンと音を立てながら、できるだけ早く足を動かした。

 

外の空気はまるでとても遠くの土地からやってきたかのように、さまざまな匂いが混じり合っていた。

上を見上げると、満月がこちらを見下ろしていた。

 

星たちはまるで、王冠にはめ込まれたダイヤモンドのように、律儀に自分たちが置かれた場所で光っていた。

僕は外にいた。

それが信じられなかった。

しばらくして、塔の下までやってきた。

階段は塔の玄関とは反対側の目立たない場所で終わっていた。

 

最後の一段を踏み、僕は大地に足を下ろした。

 

雨でぬかるんだ土に、くっきりと僕の足跡が残った。​

あたりを見回すと鬱蒼と茂った木々の中に細い道が見えた。

 

月は僕の真上にあったので、この細道だけが月に照らされて、先の方まで見渡すことができた。

 

まるで定規で引かれたようにまっすぐな道は、人の手が加えられているようで草が綺麗に刈り取られている。

まっすぐな道はやがて大きなカーブを描き、その先は見えなくなっていた。どこかに通じているらしい。

 

少なくともAとBを繋ぐ線のような役割をこの道は担っているように思えた。

 

誰かが明確な意思を持って、この塔と他の世界を繋げたのだ。

おそらく、たくさんの人がいる世界に。

階段をおりてくる音は聞こえなかった。

どうやら誰かが僕を追ってきている様子はなさそうだった。

僕は月に照らされた一筋の道を歩き始めた。

夜はまだ分厚い本のように先が残っている。

僕は前と後ろを時折確認しながら歩みを進めた。

初めて飛び出した外の世界。

僕は不思議と興奮を覚えなかった。そこには目新しさがまったくなかったのだ。

もちろん、道を煌々と照らす満月だって、風に揺られて心地よい音を立てる木々だって、森の中から聞こえる鳥の鳴き声だって。

 

どれも僕がいた世界にはなかったものだ。

だけど、それらは僕のすぐそばにあった。手を伸ばせば、そのすべてに触れるぐらいに。

それらは僕のすぐそばに現れた。いや、僕のそばに戻ってきた。

僕はこの風景を、この世界を以前に体験したことがあるに違いない。

 

記憶とはかけ離れたどこかで、僕は確かにこの世界に存在し、自分の足で歩いていたような気がした。

見たことのないはずのこの世界なのに、なんとも言えない懐かしさが僕の心に溢れていた。

それは僕にとって驚くべきことだった。

僕が見るものすべてが、また、新しい。

*Smoky Brothersではこのストーリーに新しい命を吹き込んでくれるクリエイターを探しています。イラストやアニメでこのストーリーを描いてくれる方がいらっしゃれば、お知らせください。

あとがき(Smoky Brothers/Shodai)

2015年ごろ、僕はある一人の少年に自分の好奇心をひどく揺さぶられたことを覚えている。

時間も場所も遠く離れたところにかつて実在した(とされる)カスパー・ハウザーという少年。

 

たまたま言語学の授業で彼のエピソードを耳にした時、僕はなぜか強烈な興味を掻き立てられた。

 

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カスパー・ハウザーは16歳になるまでに誰かによって地下牢のような密室に閉じこめられ育ったとされており、

突如ドイツのある街に現れた彼は、言葉はおろか人としての知性を一切持ち合わせていなかったという。

 

16年間、孤独のなか、暗闇で育った少年。

彼は一体何者なのか...?

なぜ、長い間人の目に触れない場所に追いやられていたのか...。

 

彼は人々の好奇の的となった。

人間離れした嗅覚や視覚を持った彼の能力に人々は驚いた。

学者たちはこぞって彼を研究した。

その後、多くの人の支えによって彼は徐々に人間的な生活を送れるようになり、また言葉も話し始めた。

 

しかし、彼が自分の出自について語り出しはじめた矢先、彼は何者かによって暗殺された。

 

結局、彼についての謎は分からぬまま、多くの疑問と多くの仮説だけが残った。

 

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と、カスパー・ハウザーにまつわる話はここで終わる。

 さて、それから僕はなぜか彼をモチーフにいくつかの曲を書くことになる。

 

僕の「疑問」はこれだ。

 

「もし、彼が生きていたら。つまり、殺されずにすんだのであれば...。彼はいったい何を語ったのだろう?」

 

そして、

 

「彼は誰に会いに行ったのだろう?」

 

お話ししたストーリーは、そんな僕の「もし...?」を紡いだものだ。

 

時間も場所も遠く離れたある少年に、思いを馳せて読んでいただけたら幸いだ。

 

1stシングルの"We're On The Tiny Boat Called Love"は、僕が結婚をする前に書いた曲だ。

そして、制作途中に僕は一児の父となった。

 

彼がこの世に自らすすんでやって来たのか、それともカスパーのように迷い込んでやってきたのかは分からない。

いずれにしても彼が僕らのもとにやってきた「記念」としてこの楽曲を発表できることをとても嬉しく思う。

 

僕らは言葉を紡ぐことで成立している生き物だ。

この言葉というものは便利な反面とても厄介で、人を救いもすれば傷つけもする。

 

そして僕はこの厄介な言葉を扱うことを仕事にしている。

もっといえば、この言葉を音符の上にのっけてみることで何が起こるのか実験をしている。

 

きっとこの先も言葉で傷つき、悩み、また救われるのだろう。

僕は、いや、誰しも、死ぬまで人に与えられた「言葉」というテーマについて考えていくことになるんじゃないだろうか。

それは「人間とは何か」という根源的な問いにも繋がる気がしている。

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